Oyanecoのティータイム

本と読書にまつわる雑感。たまに映画。

フェミニストですが、何か

『82年生まれ、キム・ジヨン』の話を友人としていて、読み返したくなってまた読んだ。その友人は、娘さんに「お母さんもこんなだった?」と聞かれて「そこまでではなかったよ、これは少し前の日本」と話したと言っていたけど、それを聞いて何かモヤモヤしてしまった。

確かに、この本と同じ1990年代の日本では少なくとも、胎児が女の子だとわかったらお嫁さんが姑に泣いて謝るとか、女の子を堕胎して国全体の男女比がアンバランスになるとか、男の兄弟のために女の子がないがしろにされるとかは全国的な風潮ではなかったと思うし、その点は韓国の方が男尊女卑がひどかったとも言える。

でも、満員電車で痴漢に遭い続けても泣き寝入りするとか、東大には東大女子が入れないサークルがあって他大の女子だけ受け入れているとか、医大の入試で女子を減点する点数操作、男女の賃金格差、女性のキャリア継続に立ちはだかる壁、といった面では日本が韓国よりマシだなんてとても言えない。それどころか、学校やサークルで女子が先生に物申すことは日本の方が少ないだろう。

 

自分の経験(キム・ジヨンの姉世代、日本で育った)からしかわからないが、少なくともキム・ジヨンの小学校時代の友人ユナ(給食を食べる順番の不公平を先生に訴えた)、中学の同級生の女の子(女子だけに厳しい服装規定に抗議し、あひる歩き(うさぎ跳びのようなもの)の罰を受けた時に敢えてスカートがめくれるままにして不便さをアピールした)、大学の先輩チャ・スンヨン(女子は男子部員の励みになるために参加しているわけではない、もっと仕事を任せて上に立たせてほしいと言った)みたいに毅然と行動する女子は見たことがない。

 

OECDジェンダー・ギャップ指数は、韓国の方がすでに日本より上位。女性による大規模なデモなどは日本ではついぞ起こらない(大規模デモ自体が起こらないのだが)。多分、韓国の女性よりも日本の女性はおとなしくて男性の目や世間体を気にして生きる傾向はずっと続くだろうな。残念だけど。

 

著者のチョ・ナムジュ氏は2019年2月12日の日本経済新聞(夕刊)の紙面で、「フェミニズムは、語る上で何らかの資格が必要なものでなく、物事を見る態度や過程のことではないか」「不合理な現実を意識し問題意識を持って悩む女性もまたフェミニスト。この小説がフェミニズム文学と呼ばれることは正しい」と述べている。そう言われてみれば、自分もフェミニストであり、語りたいことはある。ツイッターなどではフェミニストを名乗るアカウントに山ほどのクソなリプライがついているのを見て、とても自分はフェミニストだなんて言う気になれないけれど、このブログでなら自分のことを書いてみたいと思えた。

 

私は、キム・ジヨンの主治医の妻と同じ職業(専門分野は違う)で結婚して二人の子供を産んで、キャリアの中断はあったが今も専門を生かして仕事をしている。この点では、恵まれていると思う。この、「子供産んで復帰してフルタイムで勤務」が恵まれている、と思うことが既に特殊な状況で、これが当たり前にならなければいけないということはわかっている。

 

私の夫は私よりいくつか年上で、昭和的なオッサンで考え方は古い。

結婚した時に、私と同じ職業の夫は「君は子供ができたら家でおやつでも作っててくれればいいよ」と言ったのだ。私はそれに反発するでもなく、変なの、何言ってんのかな~と思って受け流していた。実際、仕事を続ける意思は強かったので、一人目を産んで4カ月で復帰した。保育園申請の書類を書いているときに、「どうして夫婦両方の就労証明を提出するんだろう。母親の方だけ出せばいい話なのに」と夫が言って、この時はさすがに私も相当ショックを受けた。

 

男の子が生まれ、私が『男の子の育て方』という本を読んでいたら夫は「よろしく頼むよ」と言ってきた。私がうまいこと男の子を育ててくれるもんだと思っていたんだろう。これには笑ってしまった。そんな育児書を読んだからって効率よく子供が育つわけもなく、自我が強くて個性的な長男の子育てはものすごく大変だった。夫はどっちかというと仕事に逃げるというか、大変な時はいつも不在だった。子供が病気をしたときや、私の帰りが遅い時に、私の両親がみてくれたから辞めずに済んだ。実際夫の仕事が激務だったことは私も承知しているが、少しずつ仕事量を増やしながら子供の送り迎えと友達付き合いへの同伴に加え、家事を100%こなしていた私には、うらめしく思えた。

 

子供が物心ついてからの、「男の子だから家事なんて教えてもやらないよ」「家庭科の課題なんて、女子にやってもらえ」「女の子は親の面倒見るから良いな」「嫌よ嫌よも好きのうち」など数々の夫の発言には、怒りを通り越して呆れるしか無かった。

私の方が子供たちに接する時間が圧倒的に長く、いろいろな話題について本気で子供たちと議論してきたので、幸い夫の考え方に子供たちが染まるという事態は何とか避けられてきたが、今も許せないことに変わりはない。

 

私は、自分が最も興味を持っていた専門分野を、子供が小さく手がかかる時期に朝早く夜遅く緊急の仕事も多い仕事内容との両立ができないため諦めた。今は別の専門を持っており、それ自体は良かったがセカンドベストであることに変わりはない。それでも十分幸せとは思う。しかしそれは、夫が私に「仕事をさせてくれた」お陰とは思っていない。自分で何とかしがみついてきたと思っている。

 

二人の子供がある程度大きくなり、遊び相手や身の回りの世話よりも勉強が大切になってきた頃、夫は子供たちに向き合って勉強を教えたり説教をしてくれるようになった。それはとてもありがたいし、自分にはできないことなので良かったと思う。それまでの私の苦労の分だけ、これから夫が頑張ってくれればいいと思うようにしている。

 

自分の職場の女性の後輩たちは、やる気があって実家や夫に頼れる人は出産後もバリバリ仕事をしているが、そういう人は意外と少数派だ。辞めてしまうか、家庭中心で仕事はほんのちょっと、子供の教育を頑張るのが本人と旦那さんの共通の意思、という人がむしろ多い。私の周りが特殊なのかもしれないが....。独身の人はもちろんバリバリやっているが、結婚した人が抜けた分の仕事が増えるため負担が大きく、心中複雑だろうと思う。子供がいても、女性がやりたい仕事をフルで続けることができれば、職場の未婚の女性や男性の負担も減る。こんな簡単なことが当たり前に実現するのにあと数十年以上普通にかかりそうな気がするのが現代の日本である。

 

フェミニスト、という言葉への嫌悪感も問題だ。息子は、フェミニストはアニメなどのサブカルの表現にケチをつけてカルチャーを狭める人だと思っていたようだ。女性が人として男性と対等でありたいというだけで、別に男性を毛嫌いするとか、男性を貶めたいとか、女性だけ優位に立ちたいとか言っているわけではないのに。そもそもずっと低い立場にいる女性が、普通の立場に行きたいというだけ。「女性専用車ずるい、女性限定メニューずるい」というレベルの話に目が行ってしまう男性については、残念だとしか思えないが、彼らを攻撃したい気持ちは自分にはない。

 

フェミニストにとって、「細かいことにいちいち過剰に反応する奴」と思われてしまうことは不利だから、私は家庭ではいちいち声高に主張しないようにしているが、言うべきことは言わねばならない。ドラえもんサザエさんにも、ジェンダー的に問題な表現は多々あるが、それらを子供に見せないように頑張るよりは、突っ込みを入れて、何がおかしいか議論したくなるような雰囲気にしていけばいいと思う。

 

『82年生まれ、キム・ジヨン』を夫や息子に読むことを勧めてもきっとすぐには読まないだろう(私も、人が熱心に勧めてくれる本は却って読む気が失せるタイプだ)が、私がこの本を読んでいたこと、この本が本棚にいつもあることは家族は知っているので、いつか自分から手に取ってもらえる日がくればそれでいいと思っている。