Oyanecoのティータイム

本と読書にまつわる雑感。たまに映画。

入り込めない本が続いてつらい

こんにちは。

 

『読み始めた本に入り込めなかった時』というタイトルで以前書きましたが、このところそんな本が続いていて少々辛いです。できるだけ、時間をかけても読了したいとは思っていますし、「1日10ページ」でも読めば必ず読み終わるのですが、朝早く出勤して、帰宅後は家事をこなして子どもの勉強を見て、次の日に備えて寝てしまうのであまり進まず。通勤中に、楽しくない本を開く気にもなれず。完全に言い訳だ....

 

引き込まれた本はあっという間に読み終わっていて、読みずらい本だけが残されている状態を少し重たく感じています。引き込まれなかったのがどんな本たちかというと

 

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ 新潮社

『ペスト大流行』村上陽一郎 岩波新書

『デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳:「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる』メアリアン・ウルフ インターシフト

3冊ありました。

 

それぞれに興味深いとは思うのですが、いかんせん読んでいてあまり楽しくない。編集者や評論家の方々は、読みやすさや興味に関わらず日々仕事として種々の本を読んでいるのだろうと想像し、大変だなあと思ったり。

 

これらを淡々と消化してから次に進むのか、自分好みの「読ませる」本に誘われるままにそちらに流れるか。

我ながら、勝手にしろよ...と思いつつも、しおりが挟まったままの本を日々眺めています。

私の好きな本を母に送ったところ...

私の母は、私がおススメした本をすぐに読んでくれる奇特な人です。リタイアしていて時間があり、もともと本を読む職業(文学系の学者)なので、読書が苦にならないようです。

 

この新型コロナ禍で母になかなか会えないので、お互いにおススメの本や映画のDVDをやり取りして楽しんでいました。というか、楽しんでいたつもりでした。

 

恩田陸蜜蜂と遠雷』の文庫本(上・下)と映画のDVDとパンフレットを送った後です。母から長文のメールが。なんと、超酷評!!これは凹みました。なのに、書いている本人は、「久しぶりに本気で文章を書いた」なんて、学者の本領発揮みたいな感じで充実しているんです。

 

私は、感想聞かせてねとは言いましたが評論を書いてねとは言ってないんですよ....。「良かったよ」とか「あのくだりはちょっと...」とか軽い感じで意見を交わせればぐらいに思っていたのです。メール読むだけで疲れた。そして削られました。だって、大好きな映画と、その原作を理詰めでこき下ろされた訳ですから。小説や映画は、純粋に楽しめれば良いんじゃないかな?

 

甘かった。

 

母よ、あなたの特技を生かした本格的な評論は娘に長文メールで送りつけるんじゃなくて、レビュー書いたり、自分でブログ解説して世間に問うてくれ。そう言いたいですが、そうもいかないです。普段母とはお茶やランチして世間話や仕事や家族のことを相談するぐらい仲がいいんですが。

 

またおススメの本を送る、という気には今のところなれません。立ち直れるかなぁ。

人におススメされた本、読みますか?

ぶっちゃけ、私は人から「この本、おススメ!」と言われた本は読みたくない方です。勧めてくれた相手にもよりますが。

 

思い出すのは大学生の時、珍しく祖母が面白かったという本を貸してくれたのですが、まったく読む気がせず手にも取らなかったという。確か、柳田邦夫氏のエッセイだったか。『ガン回廊の朝』をすでに読んでいた自分でしたが、人から勧められた本という時点で受け付けなかった気が。著者が云々ではないんです。

 

上の子がけっこう本を読むほうなのですが、「おススメされると読む気失せるから勧めないで」と最近言われ、おっと....となりました。この子は私と気質似てる気がする。小学校高学年の時、本好きになってほしい~という親の欲で、いろいろ本を買ってきたり、私が好きだった本を勧めたりしていて、それはほとんど読んでくれてました。まぁ、さすがにもう親の選んだものは鬱陶しいということでしょうか(高校生)。

なのに、本人は私に自分のおススメをゴリ押ししてくるんです。『リラと戦禍の風』(上田早夕里、角川書店)とか。戦記物好きらしく。私は、読みづらいな...と思いながらも読みました。子供との会話が増えるので、勧めてくれる本は努めて読むようにしています。

 

何で他人のおススメを読みたくないかと考えると、本に出合うところから自分と本とのストーリーが始まるので、そこに介入してほしくないからかと。

書店の店頭で手に取る、それは自分の足で見つけた出会いな訳で。ネット書店で見かけて興味を持つことでも良いし。書評もある意味「おススメ」ですが書いた人は知人ではないし、余計な熱量をもって勧めてくることは無く、プロの手になる文章なので大丈夫です。「良かったよ~」「私はこの本好き」という、近しい人の主観とともに本が押しかけてくるようなのが私は何となく嫌なんだろうな。

 

でも、自分が好きな本は人にも勧めたくなってしまう。共感してほしいのと、その本の良さを知ってほしいという二つの気持ち。そして、一言でも読んだ人から感想が聞けたら満足。それがなかなかうまくいかない。押しつけになりたくない。でも何か言いたいし伝えたい。だからこのブログを書いているんだと思います。

 

 

フェミニストですが、何か

『82年生まれ、キム・ジヨン』の話を友人としていて、読み返したくなってまた読んだ。その友人は、娘さんに「お母さんもこんなだった?」と聞かれて「そこまでではなかったよ、これは少し前の日本」と話したと言っていたけど、それを聞いて何かモヤモヤしてしまった。

確かに、この本と同じ1990年代の日本では少なくとも、胎児が女の子だとわかったらお嫁さんが姑に泣いて謝るとか、女の子を堕胎して国全体の男女比がアンバランスになるとか、男の兄弟のために女の子がないがしろにされるとかは全国的な風潮ではなかったと思うし、その点は韓国の方が男尊女卑がひどかったとも言える。

でも、満員電車で痴漢に遭い続けても泣き寝入りするとか、東大には東大女子が入れないサークルがあって他大の女子だけ受け入れているとか、医大の入試で女子を減点する点数操作、男女の賃金格差、女性のキャリア継続に立ちはだかる壁、といった面では日本が韓国よりマシだなんてとても言えない。それどころか、学校やサークルで女子が先生に物申すことは日本の方が少ないだろう。

 

自分の経験(キム・ジヨンの姉世代、日本で育った)からしかわからないが、少なくともキム・ジヨンの小学校時代の友人ユナ(給食を食べる順番の不公平を先生に訴えた)、中学の同級生の女の子(女子だけに厳しい服装規定に抗議し、あひる歩き(うさぎ跳びのようなもの)の罰を受けた時に敢えてスカートがめくれるままにして不便さをアピールした)、大学の先輩チャ・スンヨン(女子は男子部員の励みになるために参加しているわけではない、もっと仕事を任せて上に立たせてほしいと言った)みたいに毅然と行動する女子は見たことがない。

 

OECDジェンダー・ギャップ指数は、韓国の方がすでに日本より上位。女性による大規模なデモなどは日本ではついぞ起こらない(大規模デモ自体が起こらないのだが)。多分、韓国の女性よりも日本の女性はおとなしくて男性の目や世間体を気にして生きる傾向はずっと続くだろうな。残念だけど。

 

著者のチョ・ナムジュ氏は2019年2月12日の日本経済新聞(夕刊)の紙面で、「フェミニズムは、語る上で何らかの資格が必要なものでなく、物事を見る態度や過程のことではないか」「不合理な現実を意識し問題意識を持って悩む女性もまたフェミニスト。この小説がフェミニズム文学と呼ばれることは正しい」と述べている。そう言われてみれば、自分もフェミニストであり、語りたいことはある。ツイッターなどではフェミニストを名乗るアカウントに山ほどのクソなリプライがついているのを見て、とても自分はフェミニストだなんて言う気になれないけれど、このブログでなら自分のことを書いてみたいと思えた。

 

私は、キム・ジヨンの主治医の妻と同じ職業(専門分野は違う)で結婚して二人の子供を産んで、キャリアの中断はあったが今も専門を生かして仕事をしている。この点では、恵まれていると思う。この、「子供産んで復帰してフルタイムで勤務」が恵まれている、と思うことが既に特殊な状況で、これが当たり前にならなければいけないということはわかっている。

 

私の夫は私よりいくつか年上で、昭和的なオッサンで考え方は古い。

結婚した時に、私と同じ職業の夫は「君は子供ができたら家でおやつでも作っててくれればいいよ」と言ったのだ。私はそれに反発するでもなく、変なの、何言ってんのかな~と思って受け流していた。実際、仕事を続ける意思は強かったので、一人目を産んで4カ月で復帰した。保育園申請の書類を書いているときに、「どうして夫婦両方の就労証明を提出するんだろう。母親の方だけ出せばいい話なのに」と夫が言って、この時はさすがに私も相当ショックを受けた。

 

男の子が生まれ、私が『男の子の育て方』という本を読んでいたら夫は「よろしく頼むよ」と言ってきた。私がうまいこと男の子を育ててくれるもんだと思っていたんだろう。これには笑ってしまった。そんな育児書を読んだからって効率よく子供が育つわけもなく、自我が強くて個性的な長男の子育てはものすごく大変だった。夫はどっちかというと仕事に逃げるというか、大変な時はいつも不在だった。子供が病気をしたときや、私の帰りが遅い時に、私の両親がみてくれたから辞めずに済んだ。実際夫の仕事が激務だったことは私も承知しているが、少しずつ仕事量を増やしながら子供の送り迎えと友達付き合いへの同伴に加え、家事を100%こなしていた私には、うらめしく思えた。

 

子供が物心ついてからの、「男の子だから家事なんて教えてもやらないよ」「家庭科の課題なんて、女子にやってもらえ」「女の子は親の面倒見るから良いな」「嫌よ嫌よも好きのうち」など数々の夫の発言には、怒りを通り越して呆れるしか無かった。

私の方が子供たちに接する時間が圧倒的に長く、いろいろな話題について本気で子供たちと議論してきたので、幸い夫の考え方に子供たちが染まるという事態は何とか避けられてきたが、今も許せないことに変わりはない。

 

私は、自分が最も興味を持っていた専門分野を、子供が小さく手がかかる時期に朝早く夜遅く緊急の仕事も多い仕事内容との両立ができないため諦めた。今は別の専門を持っており、それ自体は良かったがセカンドベストであることに変わりはない。それでも十分幸せとは思う。しかしそれは、夫が私に「仕事をさせてくれた」お陰とは思っていない。自分で何とかしがみついてきたと思っている。

 

二人の子供がある程度大きくなり、遊び相手や身の回りの世話よりも勉強が大切になってきた頃、夫は子供たちに向き合って勉強を教えたり説教をしてくれるようになった。それはとてもありがたいし、自分にはできないことなので良かったと思う。それまでの私の苦労の分だけ、これから夫が頑張ってくれればいいと思うようにしている。

 

自分の職場の女性の後輩たちは、やる気があって実家や夫に頼れる人は出産後もバリバリ仕事をしているが、そういう人は意外と少数派だ。辞めてしまうか、家庭中心で仕事はほんのちょっと、子供の教育を頑張るのが本人と旦那さんの共通の意思、という人がむしろ多い。私の周りが特殊なのかもしれないが....。独身の人はもちろんバリバリやっているが、結婚した人が抜けた分の仕事が増えるため負担が大きく、心中複雑だろうと思う。子供がいても、女性がやりたい仕事をフルで続けることができれば、職場の未婚の女性や男性の負担も減る。こんな簡単なことが当たり前に実現するのにあと数十年以上普通にかかりそうな気がするのが現代の日本である。

 

フェミニスト、という言葉への嫌悪感も問題だ。息子は、フェミニストはアニメなどのサブカルの表現にケチをつけてカルチャーを狭める人だと思っていたようだ。女性が人として男性と対等でありたいというだけで、別に男性を毛嫌いするとか、男性を貶めたいとか、女性だけ優位に立ちたいとか言っているわけではないのに。そもそもずっと低い立場にいる女性が、普通の立場に行きたいというだけ。「女性専用車ずるい、女性限定メニューずるい」というレベルの話に目が行ってしまう男性については、残念だとしか思えないが、彼らを攻撃したい気持ちは自分にはない。

 

フェミニストにとって、「細かいことにいちいち過剰に反応する奴」と思われてしまうことは不利だから、私は家庭ではいちいち声高に主張しないようにしているが、言うべきことは言わねばならない。ドラえもんサザエさんにも、ジェンダー的に問題な表現は多々あるが、それらを子供に見せないように頑張るよりは、突っ込みを入れて、何がおかしいか議論したくなるような雰囲気にしていけばいいと思う。

 

『82年生まれ、キム・ジヨン』を夫や息子に読むことを勧めてもきっとすぐには読まないだろう(私も、人が熱心に勧めてくれる本は却って読む気が失せるタイプだ)が、私がこの本を読んでいたこと、この本が本棚にいつもあることは家族は知っているので、いつか自分から手に取ってもらえる日がくればそれでいいと思っている。

読み始めた本に入り込めなかった時

読み始めた本に、入り込めるのは何ページ目からですか?私は20~30ページ目ぐらいからです。それ以上読んでも、なんだかおもしろく思えない、引き込まれない、読んでいるのがつらい.....ということが時々あります。

 

そんな本は読むのをやめてしまえばいい、読書は楽しむためにあるのだから。そういう意見もあります。ただ、この本は教養として読んでおきたいと思うこともあるし、勧めてくれた人と感想を話したいので読了はしたい、という本も。

 

最近では、莫言の『赤い高粱』『続・赤い高粱』(岩波現代文庫)が私にとってそのような本でした。10年以上前に新聞で書評を読んでいて、いつか必ず読もうと思っていたものの、重い気がしてなかなか手が出ず、満を持してという感じで入手して読み始めたものの、キツイ.....。基本的に反日ストーリーであることと、グロとバイオレンスが凄まじく、カバンに入れていても、取り出さないことが増えてしまいました。いつしか、読書が楽しいという気持ちも薄れて。これは本末転倒。

 

そこで、「1日10ページ」などと決めてとりあえず毎日手に取ることにしました。そうすると、10ページぐらいは何となく読み進められるんですね。遅々とした進みで、読み終わるのは相当先になってしまいますが、必ずその日は来るわけで。

 

同時に、自分が純粋に読みたい本や、好きな作家の本も並行して読んでしまいます。そうすれば、読書の楽しさは失われず、苦手だけれど読んでおきたいという本も進むし、精神的に落ち着くことが分かりました。そんなこんなで、3,4冊並行して読んでいることが多いです。

 

新型コロナウイルス感染拡大防止策で自粛の日々が続き、書店でゆっくり本を選ぶこともままなりませんが、こんな時こそ積ん読を読み崩していこうと思います。

 

 

 

 

『月の満ち欠け』

90日以上更新していないブログに出るという広告が表示されていました.... 

そんなに放置していたとは。

 

本はずっと読んでいましたが、ここに書きにくる気になれず。どうせ読まれないし、なんて。

 

『月の満ち欠け』

佐藤正午

岩波書店

 

岩波文庫からはおそらく最後になる直木賞、と書かれていたので笑いました。確かに、見た目が圧倒的に地味。「岩波文庫的」なる文庫(厳密には岩波文庫ではない)も初めて読みました。しかし、伊坂幸太郎氏の寄稿にある通り、圧倒的に面白い。

 

Oyanecoのブックレビューではネタバレを極力避けたいのであらすじを書くことは控えますが、半分以上読まないと話が余り見えてきません。SFのような純愛小説。表紙にある「三人の男と一人の女の、三十余年におよぶ人生、その過ぎし日々」が、怨念というよりは、「かわいらしい情」ともいうべき赤い糸に沿って綴られていきます。

 

若くして亡くなってしまうことは確かに不幸ですが、こんなに強く、そしてこんなに長い間、同じ相手を思い続けられる人は幸せですね。

止めたバットでツーベース

『止めたバットでツーベース』

村瀬秀信

双葉社

 

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村瀬秀信氏は、ベイスターズファンの間では言わずと知れたガチファンライターの方です。先に『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』を読んでいた私は、新刊が出ると聞いて真っ先に購入しました。

 

本書はインタビューを基にしたエッセイ集ですが、しょっぱな第1章の「君は近藤唯之を知っているか」を読んで、「あれっ、一見さんお断りの店に来ちゃった?」に近い印象を受けて若干慌てました。割と新規なベイスターズファンの自分は近藤唯之氏のことはもちろん知りませんでしたし、読んでいると何かヤバイ人のようにも思えるし、仕事ぶりが壮絶だし、この本はニワカファンお断りの濃い空間なのか.....とすでに引き気味でした。

 

勇気を持って読み進めると、第2章「ヤクルト弁当屋」です。ここで私は自分の居場所を見つけた気分になりました。店先でヤクルトのTV中継を流しながら、野球ファンの客を捕まえて延々とヤクルトとプロ野球について語るという信じられない弁当店が巣鴨にあるらしい。行ってみたい。

 

第7章「ジントシオ」では応援が有名な千葉ロッテ応援団伝説のソングライター、ジントシオ氏の悲喜交々が描かれ、応援団という必要不可欠だが一種異様な組織について教えてくれます。

 

第11章では満を持して我らが山崎康晃の伝家の宝刀ツーシームの由来が描かれます。亜細亜大学野球部で山崎康晃東浜巨、薮田和樹、九里亜蓮が同室だったという野球マンガか!と突っ込みたくなるような事実。東浜から後輩たちに受け継がれたツーシームは実はツーシームじゃなかった?! とかね.... この章は思わず息子に読み聞かせをしてしまいました。

 

最終章は本書タイトルにもなっている「止めたバットでツーベース」。このキャッチーで謎なフレーズの真意がやっと明かされます。「選手も、ファンも、自分の出来得ることで、誰かのために力になりたいと願う。野球を動かしているのは人間の情だ。人間のよろこび、悲しみ、義侠心。怨念にも似た妬み嫉み。そんなものがどちらへ転ぶともしれない白球を媒介としてぶつかり合う。だからプロ野球は人間くさい。だからプロ野球は人の心に突き刺さるのだ。」(本文より引用)という一文が総括となっていて鳥肌が立ちました。

 

全国津々浦々の「普通の人々」のプロ野球に対する熱い思いが詰まりすぎている本です。コアなファンには共感を、ライトなファンには畏敬の念を起こさせる(かもしれない)。シーズンオフの読書に(もちろんシーズン中でも)、是非。